私のお気に入りの吟誦を歌っていた華鋒さんが中国の吟誦では人間国宝みたいな方で中国文学の研究者でもあり、しかも残念なことに2年前にお亡くなりになっていたことを数ヶ月前に知った。彼の著書を購入して、いろいろ調べ物を続けている。
 吟誦は伝承によるものもあり、彼の師であり父親である華鍾彦氏が、1979年に吉川幸次郎氏が中国を訪れた際に洛陽での接待役を任され、車中で杜甫の『登高』を一緒に吟詠したのだが、抑揚リズムが全く同じであったとの文章があった。

 当然、吉川幸次郎氏側からも調べることとなった。大学時代に結構いろんな著書を読ませていただいていたが、全く異なるアプローチとなった。『遊華記録』は1928-1931の留学中と1975の学術文化使節団長として訪中記録。筑摩叢書271『杜詩論集』の「杜蹟行」が1979に中国文学研究者訪華団団長として訪中した際のもので、1979.5.14~16『毎日新聞』夕刊に掲載された文章だった。期待したが、結果としては、洛陽近くの杜甫の生誕地を訪ねようとしたが道路状況が悪く断念せざるをえなかったという記述しかなかった。接待側としては、とんでもない田舎道に国家級ゲストを招き入れるのは危険とみて、龍門大佛にお誘いし、その車中での吟誦のやりとりとなったのだろう。吉川氏にとっては世界遺産よりも杜甫ゆかりの地だったのだろう。キャンセルされたことで、吟誦したことも記憶には残らなかったのだろうか? それとも、中国人と吟誦をやりとりすることなど吉川氏にとっては当たり前のことだったのだろうか?

 『華音杜詩抄』を古本で入手でき、十年以上ぶりのカセットテープの再生となった。なんとか回ってくれた。全体を聞いたが、吟誦ではなく、朗読したものであった。ただ、大いに勇気づけられたのは、著書の方での記述が、杜詩のピンイン表記が、私がたどり着いた吟誦表記と同じものだった。つまり、入声音については、p・k・tが付されていた。更には、韓国語とベトナム語での録音と表記もあり、北京音では消失した入声音が両言語にも残っていることが熱く語られていた。

 また、吉川氏の優しい中国語の朗読から、私は葉嘉莹女史の語り口調を感じた。彼女も今年100歳でお亡くなりになってしまったが、吟誦についてたくさんの動画を中国の動画サイトで見ることができる。
 北京混乱の軍閥時代1924年、満洲族の士大夫階級の家に生まれた葉嘉莹女史は、「中国最後のスカートをはいた士大夫」と呼ばれ、混乱の中、台湾やカナダなどに移り住んだが、カナダのブリティッシュコロンビア大学退職後は、カナダ籍華人として中国に戻り、中国国内の古典文学研究等のために尽力された。

 彼女は、『古典詩歌の吟誦と教学』という講演の中で、幼少期のことも振り返っている。多くの方言に残されている入声のない北京語環境の中、さらには士大夫という特殊な家庭環境の中、識字教育がなされた2・3歳の頃から、古典韻の平上去入の区別が教えられた。ただ、教育は論語などを使ってであって、詩などは生活の中で家族が吟誦されているものを聞いて学んだとのこと。台湾やカナダの大学で古典文学を教えていたときも、詩の講義の中で吟誦はなさらなかった。お父さんたちは大きな声で吟誦していたが、お母さんたちは控えめに吟誦していたという当時の男女の違いにも影響されていたのか、吟誦はパフォーマンスとしてするものではなく、『書経』尚書 堯典に「詩は志を言い、歌は言を永くし、声は永きに依り、律は声に和す。(詩言志、歌永言、声依永、律和声。)」とあるように、それぞれの人が、各字の平仄を吟じて心を表現するのだと述べている。同じ詩でも、おとうさんとおじさん、おかあさんとおばさんの吟誦がみんな違っていたとのこと。彼女自身も高齢になり今まで以上に披露したくはないが、古典詩詞を鑑賞する人が少なくなっている現状の中で、この吟誦と教学という講義を引き受けたのだろう。また、たくさんの彼女の吟誦動画を中国ネット上で視聴できるようになっている。吟誦は中国人読書階級にとって普通のパーソナルな読書行為でもあったのかもしれない。
 今後もいろいろ調べていきたい。